導入:犯人捜しの終わり
「失われた30年」――。この言葉が覆った時代に、どれだけの人が苦しんだだろうか。
「就職氷河期」「リストラ」「窓際族」「ブラック企業」、そして「働いたら負け」。当時を象徴するこれらの言葉からは、今もなお、社会に広がった痛みの記憶が滲み出るようだ。
その苦しみは、決して抽象的なものではない。一つの冷徹なデータが、時代の異常さを物語っている。 自殺者数だ。1998年(平成10年)以降、その数は急増し、2003年(平成15年)には34,427人を記録。そこから2011年(平成23年)に至るまで、実に14年間もの長きにわたり、年間3万人の大台を超え続けた。この数字の裏には、その何倍、何十倍もの人々の涙と絶望があったはずだ。
世界広しといえど、これほど長くデフレに喘いだ国は他にない。
一体、犯人は誰なのだ?
国民の生活を顧みず、政治家を「ご説明」で染め上げ、マスコミを使っては「国民一人当たりの借金」と不安を煽り続けた、最強官庁・財務省か。
そのプロパガンダを鵜呑みにし、思考停止で財政健全化を掲げた政治家やマスコミか。
政治家に消費税増税を迫り、国民に負担を転嫁しようとした経団連か。
あるいは、諸外国に比べてあまりに力なき量的緩和しか打てなかった日本銀行か。
私たちの脳裏には、次々と「容疑者」の顔が浮かぶ。
しかし、もし、その「犯人捜し」そのものが、私たちを本当の問題から目を逸らさせるための巧妙な罠だとしたら、どうだろうか。
真の敵が特定の「誰か」ではなく、私たち日本社会がいつの間にか失ってしまった、ある「システム」の欠如にあるとしたら――。
展開:江戸時代という「意外な処方箋」
では、その失われた「システム」の手がかりはどこにあるのか。 意外にもそれは、私たちが「時代遅れ」だと見なしがちな、江戸時代に隠されている。
多くの人が、徳川幕府による中央集権的な支配体制をイメージするだろう。しかし、その実態は驚くほどしなやかで、多様性に満ちたものだった。鍵は「幕藩体制」そのものにある。
各「藩」は、幕府に従属しつつも、独自の法・経済・文化を持つ個性豊かな「ミニ国家」であり、それぞれが独自の「OS」で動いていた。その象徴的な例が、8代将軍・徳川吉宗の時代に見られる。 吉宗が幕府財政の再建のため、徹底した緊縮財政(享保の改革)を進める中、尾張藩主の徳川宗春は「行き過ぎた緊縮は世を暗くする」と公然と批判。名古屋で大規模な規制緩和と消費奨励策を打ち、町を大いに活性化させた。中央(幕府)がデフレ政策を採る中で、地方(尾張藩)が独自の判断でリフレ政策を「実験」し、成功させていたのだ。
そして、これら個性豊かな「ミニ国家」群を繋ぎ、巨大な知的ネットワークとして機能させたのが「参勤交代」だった。 これは単なる大名の忠誠を試す制度ではない。全国の藩が持つ独自の知恵や情報が、江戸というハブに定期的に集積され、交換される、日本史上最大の「対面型アイデアソン」でもあった。
このシステムが国難において真価を発揮したのが、幕末のペリー来航時である。 開国か攘夷か――国論が真っ二つに割れる未曾有の危機に、老中首座の阿部正弘は、幕府内の凝り固まった意見だけに頼らなかった。彼は様々な人物と対話したが、特に頼りにしたのが、外様大名である薩摩藩主・島津斉彬だった。 幕政において、外様の意見を求めること自体がタブー中のタブー。
人の目を忍び、神経をすり減らすような会談だったに違いない。 なぜ、命を削ってまで斉彬だったのか。それでも阿部が斉彬を求めたのは、薩摩という地理的条件が、彼に独自のシンクタンクを形成させていたからだ。琉球(沖縄)を通じて海外の最新情報に触れ、富国強兵の必要性を誰よりも痛感していた斉彬の情報と卓見を、阿部は見抜いていたのだ。事実、この激務の中で阿部は命を縮め、幕末の動乱を見ることなくこの世を去る。
硬直化した幕閣だけでなく、参勤交代というネットワークを通じて、薩摩という「外部の知恵」にアクセスできたからこそ、幕府は国家存亡の危機に対応できた。 もし、この「知恵のバックアップシステム」がなければ、日本は内輪の議論に終始し、欧米列強の植民地と化していたかもしれない。
核心:現代日本が「失ったもの」の正体
さて、話を現代に戻そう。 この江戸時代の「知恵のバックアップシステム」と、現代日本の姿を比較した時、私たちが何を失ったのかが、あまりにも残酷なほど明らかになる。
江戸時代には、多様な価値観を持つ「藩」が存在した。中央(幕府)の政策が絶対ではなく、地方が独自の「実験」を行う余地があった。 では、現代はどうか。 明治維新後、欧米列強に追いつくため、日本は「富国強兵」のスローガンの下、江戸の多様性を捨て、「効率」を最優先する中央集権国家へと舵を切った。それは、国家存亡の危機において、必要不可欠な選択だっただろう。多様な藩校で学んだ、しなやかな思考を持つ明治の元勲たちが国を率いていた時代は、まだ良かった。
しかし、画一的な学制で育ったエリートが国の中枢を担い始めると、システムは徐々に硬直化していく。一度決まった「正解」のレールを、誰も変えられない、止められない。
そのシステムは、敗戦という大きな痛みをもってしても、変わることができなかった。「戦後復興」という新たな目標達成のため、中央集権システムはあまりにも「都合が良すぎた」からだ。
そして、ついにその限界が訪れる。
高度成長という追い風が止んだ時、かつては強みだったはずの、効率一辺倒のシステムが牙を剥いた。国の知恵は、日本の画一的な教育が生んだエリートが集まる組織――「財務省」という単一のOSに独占され、そのOSが「財政健全化」というバグを起こした時、日本全体がフリーズしてしまったのだ。
「失われた30年」で私たちが本当に失ったのは、GDPの数字や国際競争力ではない。 それは、一つの理論が破綻しても、他の誰かが、他の場所で、新たな道を試すことができる社会全体のしなやかさ。
江戸が当たり前に持っていた『試行錯誤できる多様性』そのものだったのである。
結論:提言
私たちは今、一度動き出したら止まれず、方向も変えられない巨大な船に乗せられている。 その舵を握るのは、ほとんど同じ人生経験を積んだ、均質な組織。諸外国が決して選ばない理論に固執し、この国に「失われた30年」という苦難を強い、数多の命が失われてもなお、彼らは自らの正当性を主張し続ける。
では、どうすればいいのか。 江戸時代のように、再び各地方に大幅な自由を認めるべきだろうか。だが、「三割自治」と揶揄されるほど中央との格差が広がりきった現代において、それは現実的な解とは言えないだろう。
本当の処方箋は、他にある。 中央官庁がほぼ一手に担う、国家のシンクタンク機能。その巨大な船は、情報の蓄積は桁違いだが、あまりに小回りが利かない。 ならば、現代の「薩摩」を、私たちの手で意図的に創り出し、育てるのだ。
阿部正弘が、危機に瀕した幕府の「外部」にあった薩摩藩という知恵にアクセスしたように、私たちもまた、多様な知恵の源泉を確保するのである。
- すでに存在する、志ある民間のシンクタンクを、政府が今以上に政策立案のパートナーとして活用する。
- アメリカを参考に、国家観を競う議員や政党が、それぞれ独自のシンクタンクを持つことを制度として後押しする。
斉彬が薩摩という特異な環境で独自のシンクタンク機能を高めたように、多様な主体がそれぞれの立場から政策を磨き上げ、競い合う。そうして初めて、財務省理論という単一の「正解」から、私たちは自由になれる。 国民もまた、その政策論争を見て、誰に未来を託すかを決める。それこそが、成熟した民主主義国家の姿だ。
明治維新の荒波を乗り越え、戦後復興を成し遂げたこの国のOSは、確かに偉大だった。 しかし、その栄光も過去のものだ。
愛するこの国と、未来の世代のために。 今こそ、私たち国民が、自らの手でOSを書き換えるべき時なのである。
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