石破茂は「操り人形」だったのか?- 政治家を使い捨てる『メディアシステム』の罪

思考法

【導入】辞任劇の先にある「本当の問題」

「わが国は国難とも言うべき厳しい状況にある。今最も大切なことは、国政に停滞を招かないことだ」

参院選で歴史的大敗を喫した直後の7月21日、石破茂総理は党本部の会見で、悲壮な決意を滲ませながらこう語った。多くの同志を失いながらも、なお職責を全うしようとするその姿は、ある者には「責任感の表れ」と映り、またある者には「往生際の悪い言い訳」と映っただろう。

しかし、そのわずか48時間後、永田町からリークされた情報は、彼の言葉とは全く逆のものだった。
「退陣は不可避」「首相が3人に頭を下げるスタンスだ」
党の重鎮たちとの会談を終え、もはや彼の辞任は時間の問題だと、誰もがそう思った、その矢先だった。
「そのような発言をしたことは一度もない」
石破総理本人は、記者団に対し、自身の辞任報道を、真っ向から否定したのだ。

一体、この48時間に何があったのか。 いや、問うべきはそこではない。なぜ、国民に見せた顔と、党内で見せた顔は、これほどまでに違ったのか。

この記事は、石破茂という一個人を評価することが目的ではない。 彼を「次の総理」として持ち上げ、そして最後は「システム」の論理で引きずり降ろした、この社会の巨大な「舞台装置」そのものに、分析のメスを入れるための、思考の実験である。

【第1章】舞台装置の解剖:なぜ「石破待望論」という”空気”は作られたか

なぜ、あれほどまでに「石破待望論」はメディアを席巻したのだろうか。その答えは、石破氏個人の資質よりも、それを取り巻く「システム」の動機にこそ隠されている。

主役は、石破茂ではない。彼を動かした「メディア」という、巨大なシステムそのものである。 テレビや新聞にとって、政治は最高の「エンターテインメント」である。そして、エンタメを盛り上げるのは、いつだって分かりやすい「対立構造」だ。当時、国民から大きな支持を受け絶対的な権力者であった安倍元総理という「悪役」に対し、その内部から正論で立ち向かう「孤高の英雄」。メディアにとって、石破茂氏はこの「英雄」役を演じさせるのに、あまりに都合の良い存在だった。

メディアは彼の発言を効果的に切り取り、「権力に屈しない唯一の論客」というブランドを確立させ、その存在感を高めていった。

そして、私たち国民もまた、その物語を無意識に求めていた。複雑な政策論争よりも、単純な善悪二元論のほうが理解しやすい。日々の生活への不満や閉塞感を、政府への批判に転嫁し、それを代弁してくれるヒーローの登場を、どこかで待ち望んでいたのだ。

メディアの商業的動機と、国民の心理的欲求。この二つが共鳴した時、「石破待望論」という巨大な「空気」は醸成されたのである。

【第2章】ある舞台役者の悲劇:石破茂はなぜその「役」を降りられなかったか

このシステムが作り上げた舞台に、主役として選ばれたのが石破茂だった。彼がその役に完璧にフィットしてしまったのには、悲しいほどの理由がある。

第一に、彼の「政策通」というキャラクター。難解な政策や兵器のスペックを熱心に語る姿は、(専門家からは時に「運用を知らない」と揶揄されながらも)、「知性的な反権力」という役柄に、圧倒的な説得力を持たせた。

第二に、彼の隠さぬ「野心」。総理大臣という頂点への強い想いが、メディアが作った舞台だとしても、それに乗る十分な動機となった。

そして第三に、彼の党内での「孤立」。(国会議員票では苦戦する一方、党員票では圧倒的な支持を得るという事実が、それを裏付けている)。主流派でないからこそ、「体制に屈しない」という役柄を、彼はリアルに演じることができた。

メディアが作った「人気」というスポットライトは、彼にとって心地よかったに違いない。いつしか彼は、その役を演じているのか、役そのものになってしまったのか、区別がつかなくなっていたのかもしれない。システムによって作られた「舞台役者」は、もはや自らの意志でその役を降りることはできなくなっていたのだ。

【さらに思考を深めたい方へ】 この記事で、私たちは「専門家からの視点」の重要性を論じました。では、その専門家たちは、リーダーに何を求めているのでしょうか。元海上自衛隊海将・伊藤俊幸氏の著書『参謀の教科書』は、その答えを知るための一級の資料です。組織のトップに立つ者に求められる資質とは何か。本書を読めば、なぜ石破氏の「政策通」ぶりが、現場のプロたちに響かなかったのか、その理由がより立体的に見えてくるはずです。

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【第3章】観客(わたしたち)の責任:次の「犠牲者」を生まないために

だが、この劇の責任は、メディアと役者だけにあるのだろうか。私たち「観客」にも、その責任の一端はある。

分かりやすい物語に熱狂し、SNSでヒーローを祭り上げ、そして一度風向きが変われば、一斉に手のひらを返して叩き始める。その無邪気な熱狂が、このシステムを強固なものにしていくのだ。

私たちが本当に求めているのは、国の未来を真剣に考えるリーダーなのか。それとも、ただ自分の不満を代弁し、溜飲を下げさせてくれる「偶像」なのか。

白黒思考で下される世論の雑な断罪は、しばしば個人に、その罪をはるかに超えた罰を与えてしまう。昔、悪いことをした子供を叱る時、その子の「手」を叩いて、「この手が悪かったね」と、行為と人格を切り離す知恵があったという。しかし今はどうだろう。一つの失敗で、その人の存在全てを否定するような、徹底的な攻撃が繰り返される。

次の「犠牲者」を生まないために必要なのは、安易な善悪二元論に飛びつかない「知的な体力」だけではない。良いことは良い、悪いことは悪いと是々非々で判断する冷静な思考と、罪と罰のバランス感覚を取り戻すこと。それこそが、成熟した社会の条件なのかもしれない。

【結論】舞台を降り、自分の頭で考える時

石破茂の進退をめぐる、この不可解な混乱は、一つの時代の終わりではなく、むしろ、私たちがどのような「観客」であるかを、リアルタイムで突きつける、最終試験なのかもしれない。 私たちはこれからも、メディアが作った舞台の上で繰り広げられる政治ショーの「観客」であり続けるのか。

個人を批判する熱狂から一歩引いて、その背景にあるシステムを見つめる。一つの意見に流されず、矛盾した情報を統合し、多角的に物事を捉える。この記事で試みたような思考のプロセスは、作られた「空気」に流されず、自分の頭で判断するための、ささやかな武器である。

舞台の幕は、まだ完全には降りていない。本当の劇は、これから始まるのかもしれない。次に現れる「新しい役者」を、あなたは、どのような「レンズ」で見つめるだろうか。

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