僕らの血が「赤」いわけ – 森が仕組んだ、4億年の逆転劇

生命の歴史

序章:もし、あなたの血が「青」かったなら

もし、あなたの血が「青」かったなら、世界はどう見えていただろう? 手足を流れる血液が、空や海のような青色だったとしたら。私たちは、生命や身体について、今とは全く違うイメージを持っていたかもしれない。

馬鹿げた問いだと思うだろうか。だが、生命の歴史を遡れば、これは決して空想ではない。地球の覇者の血が、青かった時代が確かに存在したのだ。

私たちの体内に脈打つこの「赤い血」は、数多の選択肢の中から、ある壮大な地球規模の“事件”をきっかけに、王座を勝ち取った一つの派閥にすぎない。

これは、酸素という猛毒を巡る、四色の血の年代記。そして、遥か昔に起きた「森の誕生」という革命が、いかにして私たちの祖先に「赤い血」を与え、陸上への道を開いたのかを解き明かす、4億年の謎解き図鑑である。

第1章:青の錬金術師、カンブリアの海を統べる

物語は、約5億年前、カンブリア紀の海から始まる。 当時の海は、現代とは似ても似つかない世界だった。生命が爆発的に多様化する一方、海中の鉄分は乏しく、生物が利用できる資源は限られていた。

この環境で栄華を極めたのが、「青の錬金術師」ことヘモシアニンだ。 彼は、鉄の代わりに、当時より豊富にあった「銅」を使って酸素を運ぶという、全く新しい技術体系を確立した 。酸素と結びついた彼の体は、鮮やかな青色に輝いた 。アノマロカリスをはじめとするカンブリア紀の奇妙な支配者たちも、この青い血をその身に宿していたのかもしれない。

ヘモシアニンは、巨大なタンパク質複合体という「空中都市」のような構造を築き上げ 、節足動物と軟体動物という、後に地上をも席巻する二大派閥の礎を築いた 。この時代、青こそが生命の躍進を支える「王の色」だったのである。

第2章:デボン紀の地球革命 – 森が大地を「発明」する

海の覇権を青い血が握っていた頃、陸上では、のちに地球の全てを塗り替える、静かなる革命が進行していた。植物の上陸と、「森林」の誕生だ。

約4億年前のデボン紀、それまで地表を覆っていたコケのような小さな植物に代わり、根を深く張り、幹を天に伸ばす巨大なシダ植物などが現れ、地球史上初の「森」を形成した。

これは単に緑が増えただけではない。植物の根が岩石を砕き、その有機物が混ざり合うことで、地表はただの岩屑から、生命を育む「土壌」へと姿を変えた。大地が、発明された瞬間である。

第3章:大地から海へ – 「鉄」の奔流が世界を変える

大地という名の巨大な化学プラントが稼働を始めると、世界のルールが一変する。 森に降った雨は、土壌に豊富に含まれる有機物と共に、それまで岩石の中に固く閉ざされていた「鉄分」を大量に溶かし出した。

通常、鉄は酸素に触れるとすぐに錆びて水に溶けなくなる。だが、植物由来の有機物が鉄と手を結ぶ(キレート化)ことで、鉄は水に溶けたまま、川を下り、海へと注がれ続けた。 森が、大地から海へと繋がる「鉄のパイプライン」を開通させたのだ。

鉄分が乏しかった海は、数千万年という時をかけて、生命にとって最も重要な金属の一つである鉄で満たされていった。カンブリア紀以来の海の常識が、根底から覆されようとしていた。

第4章:「赤の王道」の戴冠、そして新世界へ

鉄に満ちたデボン紀の海で、ついに「彼」が歴史の表舞台に躍り出る。 「赤の王道」、ヘモグロビンだ。

ヘモグロビンは、鉄を含む「ヘム」という分子を使って酸素と結合する 。鉄がなければ、彼はその能力を発揮できない。だが、森が鉄を海に供給し始めたことで、彼の時代が、ついに到来したのだ。

ヘモグロビンの真の革命は、その圧倒的な「効率性」にある。 彼は遺伝子重複という革新を繰り返し、サブユニット同士が連携して酸素を運ぶ「協同性」を獲得 。さらに、「赤血球」という専用の細胞に自らをパッケージングすることで、浸透圧の問題を解決し、血液中の酸素運搬容量を爆発的に高めることに成功した 。その運搬効率は、他の色素の追随を許さなかった。

この高出力エンジンを手に入れた私たちの祖先――デボン紀の魚類――は、他の生物を圧倒する活動性を手に入れ、爆発的に多様化した。「魚の時代」の到来である。

そして、この「赤い血」の力が、生命史最大の挑戦である「陸上への進出」を可能にする。 重力に抗い、空気から直接酸素を取り込んで活動する陸上生活は、水中とは比較にならないほど莫大なエネルギーを消費する。ヘモグロビンによる高効率な酸素供給システムがなければ、私たちの祖先が、ヒレを脚に変えて、新世界への一歩を踏み出すことは永遠になかっただろう。

森が鉄を運び、鉄が赤い血を育て、赤い血が、私たちを陸上へと導いた。これが、4億年をかけた壮大な逆転劇の結末である。

終章::四つの血、四つの物語

では、王座を追われた者たちはどうなったのか?

  • ヘモシアニン(青の錬金術師): 彼は決して滅びなかった。陸に上がったクモやカタツムリのように、脊椎動物とは異なる戦略で、今なお繁栄を続けている。
  • クロロクルオリン(緑の異端児): ヘモグロビンの親戚でありながら、ヘムの一部を改造するという独自の進化を遂げた 。その血は、薄ければ緑、濃ければ赤に見える不思議な性質を持つ 。ケヤリムシなど、ごく一部の海洋生物だけが持つ、孤高の芸術品だ。
  • ヘムエリスリン(紫の古老): 生命の黎明期から存在した、最も古いタイプの一つ 。鉄を使うがヘムは持たない 。多くの生物が新しい技術に乗り換える中、彼はその原始的な設計を守り続け、特定の海底で静かに生きる「生きた化石」である。

赤、青、緑、紫。

生命は、酸素を運ぶという一つの課題に対し、決して単一の「正解」を求めませんでした。環境の変化に適応し、手に入る材料を使い、驚くほど多様な解決策を生み出してきたのです。

私たちの血管を流れる赤い色は、単なる化学物質ではありません。 それは、4億年前にデボン紀の森が奏でた大地の音を、今この瞬間にも全身に伝え続ける「生きた化石」です。私たちの体そのものが、地球の記憶を宿した生命の「伝家の宝刀」だったのです。

次に自分の手のひらを見つめるとき、そこに流れる赤色が、かつて地上を覆い尽くした森の、壮大な遺産であること。 ――ただその事実を知るだけで、昨日までとは少しだけ、世界が違って見えるかもしれません。

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