なぜ徳川吉宗は将軍になれたのか? ~暴れん坊将軍を誕生させた「見えざる暗殺者」の正体~

生命の歴史

奇跡の将軍、徳川吉宗

紀州の貧乏大名。それが、後に「米将軍」「暴れん坊将軍」として名を馳せる徳川吉宗に与えられた、若き日の評価だった。

彼の前には、あまりにも多くの壁が立ちはだかっていた。 将軍・綱吉には息子が、その兄・綱豊(家宣)にも息子がいた。将軍家に次ぐ家格を誇る御三家筆頭、尾張徳川家の存在もあった。そして、乗り越えるべき壁は外部だけでなく、最も身近な場所にも――そう、吉宗には二人の実兄がいたのだ。 将軍継承順位から考えれば、彼が江戸城の主となる可能性は、限りなくゼロに近かった。

しかし、歴史の歯車は狂い始める。

将軍の子や兄たちが、まるで何かに呪われたかのように、次々とこの世を去っていく。天然痘(疱瘡)が、麻疹が、そして名もなき感染症が、最高権力者の血脈さえ容赦なく蝕んでいったのだ。

これは単なる偶然の連鎖だったのか。それとも、歴史の背後に潜む、もっと大きな「理(ことわり)」が働いていたのか。

吉宗の奇跡的な出世物語は、実は彼一人の英雄譚ではない。それは、富や権力ですら抗うことのできなかった「死」が日常であった時代の、無数の声なき声が織りなした、必然の物語の序章だったのである。

第1章:金色の鳥籠 ー徳川将軍家のパラドックスー

日本の頂点に君臨した徳川将軍家。その権力の安泰は、しかし常に一つの深刻な問題に脅かされていた。跡継ぎとなる子供たちの、驚異的な死亡率である。

私たちはその原因を、安易に物語に求めたくなる。女たちの嫉妬が、権力への欲望が、目に見えぬ呪詛となって幼い命を奪ったのだ、と。しかし、もし本当の「呪い」が、もっと静かで、抗いようのない「構造」そのものに潜んでいたとしたら?

この問題が最も劇的に現れたのが、11代将軍・徳川家斉の治世だ。家斉は生涯で実に53人もの子供をもうけたが、無事に成人できたのは半数程度の26人から28人ほどに過ぎなかった 。その死亡率は約50% 。当時の江戸庶民の乳幼児死亡率が20~25%と推定される中 、これは突出して高い異常な数値だった。

さらに悲惨なのは12代将軍・家慶で、生まれた23人の子供のうち、成人したのは、わずか1人だったのである

なぜ、食うや食わずの庶民よりも、日本で最も恵まれた環境にあるはずの将軍家の子供たちが、これほどまで死んでいかなければならなかったのか。

そこには、「特権」が「生存」に必ずしも繋がらないどころか、かえって死を招き寄せるという、恐るべきパラドックスが隠されていた。

第2章:「静かなる暗殺者」の正体

将軍家の子供たちを蝕んだ「見えざる暗殺者」の正体。それは、女人禁制の閉鎖空間「大奥」が生み出した、特殊で歪んだ環境そのものだった

要因1:権力闘争が生んだ、歪んだ乳母制度。 その背景には、皮肉な歴史の教訓があった。かつて3代将軍・家光の乳母であった春日局が絶大な権力を握ったことへの反省から、乳母の力を徹底的に削ぐことが、大奥の至上命題とされたのだ 。その結果、乳母の役割は細分化・儀式化され、授乳のみを担う「乳持」は、目隠しをされ、赤子を抱くことさえ許されない不自然な体勢で授乳を強いられた

過去の権力闘争への対策が、未来の世継ぎの命を脅かす。これでは赤子が十分な母乳を飲めるはずもなく、最も重要な時期に慢性的な栄養不足に陥っていた可能性が高い

要因2:美への願いが招いた、猛毒のおしろい。 もう一つの悲劇は、「美しくありたい」という女性たちの切なる願いが、科学の未熟さと交差したことで生まれた。当時の大奥の女性たちは、有毒な鉛を高濃度で含む白粉(おしろい)を、顔だけでなく首筋や胸元にまで厚く塗るのが常だった 。授乳されたり抱かれたりする赤子は、母親のその肌に触れるたび、知らず知らずのうちに猛毒を体内に取り込んでしまっていたのである

皮肉なことに、権力闘争の教訓が、世継ぎそのものを死に追いやっていた。美への飽くなき憧れが、我が子の命を静かに奪っていった。 序列と儀式を維持するためにデザインされた金色の鳥籠は、生物学的な親子の温かい繋がりを断ち切り、結果として、赤子にとってこの世で最も危険な場所と化していたのである

第3章:「七歳までは神のうち」 ー江戸を覆う死の影ー

将軍家の悲劇は、氷山の一角に過ぎなかった。江戸の市井に生きる人々の間では、一つの言葉が、切実な実感をもって囁かれていた。「七歳までは神のうち」。子供の命は7歳という節目を迎えるまで、その存在は現世に定着したものではなく、いつ神々の領域へ還ってもおかしくない、儚い仮の宿りである、と。

その切実な祈りは、現代にまで残る一つの童謡の中に、結晶のように封じ込められている。誰もが知る「とおりゃんせ」の一節だ。 「この子の七つのお祝いに お札を納めにまいります」 あのどこか物悲しい旋律に乗せて歌われるこの言葉こそ、無事に7歳という大厄を越えられたことへの、親の偽らざる安堵の声だったのである。

当時の人口統計学的研究も、その感覚を裏付けている。乳児(1歳未満)の死亡率は20~25%と極めて高く、幼少期全体が常に死と隣り合わせだったのだ

子供たちの命を奪った最大の捕食者は、目に見えぬ感染症だった。

  • 疱瘡(天然痘): 最も恐れられた病であり、その致死率は20~40%という驚異的な高さだった。たとえ一命を取り留めても、顔に「あばた」と呼ばれる醜い瘢痕が残ることが多く、「疱瘡はみめ定め(容姿を決める)」とまで言われた。
  • 麻疹(はしか): これもまた主要な死因の一つで、その猛威は身分を問わず、5代将軍・徳川綱吉も麻疹によって命を落としている。
  • 痢病(赤痢): 細菌感染症で、激しい下痢を引き起こし、体力の弱い子供にとっては致命的だった。

有効な治療法が存在しない中で、人々は恐怖と無力感に立ち向かうしかなかった。疱瘡を「疱瘡神」という強力な神として擬人化し、その機嫌を損ねぬよう一心に祈りを捧げる。病魔を追い払うとされる「赤色」の力を信じ、子供に赤い着物を着せ、「疱瘡絵」と呼ばれるお守りを飾る

それは、混沌とした現実に対して、ささやかながらも秩序と希望を見出そうとする、人々の必死の抵抗の証だったのである。しかなかったのである。

第4章:夜明けの光から、社会という愛情へ

絶望の闇に、やがて一筋の「夜明けの光」が差し込む。それは、神の領域とされてきた運命に、人間の「知性」と「勇気」が初めて挑んだ、英雄たちの物語だった。

その画期的な一歩は、18世紀中頃に中国から伝わった人痘種痘法に始まる 。天然痘患者のかさぶたを接種するこの方法は、秋月藩の医師・緒方春朔によって改良され、日本で初めて成功裏に実施された 。しかし、それはまだ、接種した者自身が死亡するリスクをはらむ、危険な賭けでもあった

真の夜明けは、1849年、はるかに安全な牛痘種痘法が、長崎出島のオランダ商館医モーニッケによってもたらされたことで訪れる 。この光を日本中に広げたのは、幕府ではなく、進取の気性に富んだ蘭方医たちの情熱だった。大阪に「除痘館」を設立した緒方洪庵 。その安全性を証明するため、我が子に接種した佐賀藩医の楢林宗建 。彼らの勇気ある行動が、佐賀藩や福井藩といった進歩的な大名を動かし、藩を挙げた無料の接種事業へと繋がっていったのである

この個人の英雄たちが灯した光は、1868年の明治維新によって、国家全体のシステムへと昇華される。新政府は、西洋医学と公衆衛生を、近代国家建設の重要な柱と位置づけたのだ 。1858年に江戸の蘭方医たちが設立した「お玉ヶ池種痘所」は、やがて東京大学医学部の前身となり 、1874年には「医制」が公布され、全国的な医学教育と公衆衛生行政の枠組みが確立された

そして、この流れが、国民一人ひとりの「愛情」の形として結実するのが、第二次世界大戦後のことである。 1947年の児童福祉法 、そして日本の独創性が最も発揮された「母子健康手帳」の導入 。その原型は戦時中の1942年に遡り、1948年に全国で配布が開始されたこの一冊の手帳は、まさに「社会という愛情」の結晶だった

  • ケアの継続性: 妊娠から出産、子供の成長記録までを一つにまとめ、母子の健康を切れ目なく見守ることを可能にした 。
  • 母親のエンパワーメント: 母親に正しい知識を与え、子供の成長記録を通して医療に主体的に関わるための強力なツールとなった 。
  • ケアの標準化: 全國で同じ手帳が使われることで、どこに住んでいても一定水準のサービスが受けられる体制を整えた 。

一本の注射から始まった光は、やがて国を動かし、ついには全ての親子に寄り添う一冊の手帳という、温かい愛情のシステムへと進化した。日本の乳児死亡率は、1947年の76.7(出生千対)から、2022年には1.7という、世界で最も低い水準へと劇的に改善したのである

結論:晴れ着に込めた、40億年の祈り

かつて子供たちの命を脅かした疱瘡や麻疹は、現代の日本ではほぼ制圧された 。その結果、今日の周産期医療が向き合う課題は、外部からの病原体との闘いから、「先天奇形、変形及び染色体異常」といった、より内的な問題へとシフトしている

私たちは、徳川将軍家の権力ですら抗えなかった悲劇も、「七歳までは神のうち」と囁かれた江戸の絶望も、そして第4章で描いた先人たちの壮大な闘いも、すべて乗り越えて今ここにいる。

この長い闘いの歴史を知って初めて、私たちは「七五三」の晴れ着が持つ本当の意味を理解できる。それは、過去の無数の悲しみと、科学と愛情の絶え間ない努力という礎の上に立つ、現代に生きる私たちが受け継いだ「最も尊い遺産」なのだ

子供の健やかな成長を願う親の気持ちは、疱瘡神に手を合わせた江戸の親たちも、現代の私たちも、何一つ変わらない。しかし、決定的に違うことがある。かつての人々が「祈り」に託すしかなかったその願いを、今の私たちは、先人たちが築き上げた「社会という愛情」の力で、現実にすることができる。

この「祈り」を「現実」に変えてきた力こそ、人間が自覚と想像力によって未来を切り開くことができる、という希望の証左に他ならない。

そして、この力がもたらした現代社会は、単に子供の死亡率が低いだけの世界ではない。かつては、強靭な肉体を持つ者だけが生き残りを許された時代だった。だが今は、そうではない。かつてであれば幼くして失われていたであろう、繊細な感性や、ユニークな知性が花開き、社会を豊かにする時代が訪れたのだ。私たちは、かつてないほどの「多様性」という名の力を手に入れたのである。

これこそが、先人たちが勝ち取った闘いの結晶であり、さらに言えば、生命が40億年かけて積み上げてきた、一つの理想の社会の形なのかもしれない。

この尊い遺産を、私たちは未来のためにどう活かしていくのか。その問いこそが、現代に生きる私たち一人ひとりに託された、新たなバトンなのである。

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