序章:『チ。』が突きつけた問い
地動説を証明するために、自らの全てを懸けた者たちがいた。漫画『チ。-地球の運動について-』は、その物語だ。絶対的な権威が支配する世界で、一つの「真理」が、いかに「異端」として扱われ、その探求者たちが、いかに無慈悲に引き裂かれていったか。その壮絶な描写は、我々の胸に、鋭い問いを突きつけてくる。
この物語は、遠い過去のフィクションではない。それは、形を変え、時代を超えて繰り返される、人間の「異端審問」の原型である。
なぜ、人は真実よりも「秩序」を、個人の尊厳よりも集団の「安心」を優先してしまうのか。 そして、ごく平凡な人々が、いかにして、自らの隣人を「魔女」や「異端者」として断罪する、巨大なシステムの歯車となり得てしまうのか。
その答えは、我々の心の中に潜む、巧妙な「罠」にある。
第1章:恐怖の舞台装置
15世紀から17世紀のヨーロッパ。それは、神の威光が揺らぎ、ペストの黒い影が覆い、小氷期がもたらす飢饉に人々が喘いでいた、不安の時代だった。
理解不能な厄災が続けば、人々は、その原因を説明してくれる単純な「物語」を求める。そして、その物語には、必ず「悪役」が必要となる。自分たちの苦しみを、その一身に引き受けてくれる、分かりやすいスケープゴートが。
彼らの目に「悪役」として映ったのが、共同体の外れに住み、古くからの知恵を持つ、孤立した人々…後に「魔女」と呼ばれることになる者たちだった。
社会という舞台に、観客(民衆)の不安と恐怖が満ち、悪役(魔女)が登場した。 あとは、その悪役を断罪するための「脚本」が揃えば、いつでも悲劇の幕は上がる。その脚本こそ、我々の心に潜む、数々の心理バイアスだったのである。
第2章:魔女狩りのエンジン
舞台の準備は整った。だが、観客が熱狂し、悲劇が回り始めるには、彼らの心を操る見えざる”エンジン”が必要だった。
最初のエンジンは、「確証バイアス」という、人間の認知の歪みだ。 ひとたび「あの人物は魔女だ」という疑念の種が植えられると、人々の目は、その疑いを「確証」する情報だけを探し始める。老婆が薬草に詳しければ、それは毒薬を作っている証拠となり、美女が魅力的であれば、それは男を惑わす悪魔の力となる。無実を示す事実は、都合よく無視され、あるいは悪意をもってねじ曲げられるのだ。
この歪んだ認知の炎に、油を注ぐのが「正常性バイアス」である。 告発された者も、そして見て見ぬふりをする者も、目の前の危機を「正常」の範囲内だと過小評価してしまう。「まさか、こんなことが起きるはずがない」。その希望的観測が、逃げるべき者の足を鈍らせ、止めるべき者の声を封じ、結果として、狂気が広がるための時間を稼いでしまったのである。
そして、狂気の輪が広がり始めると、第三のエンジン、「集団同調性」が作動する。 「おかしい」と心で思っていても、告発に異を唱えれば、次は自分が異端者として断罪されるかもしれない。その恐怖が、人々を「沈黙する多数派」に変え、ついには、無言のまま石を投げる側に回らせてしまう。
だが、善良な市民であるはずの自分が、隣人を火あぶりにするのに加担している。この耐えがたい自己矛盾を、どう解消すればいいのか。 ここで最後のエンジン、「認知的不協和」が、彼らの心に最終的な「救い」を与える。「そうだ、あの隣人は人間ではない。邪悪な魔女なのだ。だから、この行いは正しいのだ」と。 自らの残虐性を正当化することで、彼らはついに、心の痛みを感じない、完璧なシステムの歯車と成り果てるのである。
第3章:現代の魔女狩り
歴史は繰り返す、と人は言う。だが、それは同じ服を着て現れるわけではない。かつて松明とフォークを手にしていた群衆は、今、キーボードとスマートフォンを手にしている。魔女を裁いた4つの「心のエンジン」は、形を変え、私たちのポケットの中で、静かに再起動の時を待っているのだ。
現代の魔女狩りを理解するには、まず、その根底にある三つの歪みを解き明かす必要がある。
第一の歪みは、「私刑(リンチ)」の正当化だ。 「何を思うかは、完全に個人の自由である」。これは、近代社会の揺るぎない大前提だ。心の中で誰かを「魔女」と思うことも、誰かの言動が許せないと感じることも、誰にも止められない。しかし、その思いを、社会的な制裁という「石を投げつける」行動に移した時、それは「表現の自由」の範囲を超え、法で禁じられた「私刑」という名の暴力へと変貌する。手軽な正義感は、時に、最も危険な凶器となる。
第二の歪みは、「罪」と「罰」の恐るべき不均衡である。 たとえ、対象者に何らかの過ちがあったとしても、現代の魔女狩りにおける「罰」は、あまりに過剰で、無限だ。一つの過ちや、不確かな疑惑に対して、その人物の過去、キャリア、家族、人生の全てが否定される。それは、もはや更生を促す「罰」ではない。存在そのものを抹消しようとする、残忍な「人格の破壊」に他ならない。
そして、最も根深い第三の歪みが、「思考なき断罪」の構造だ。 「みんなが言っているから」「週刊誌に書いてあったから」。確かな証拠ではなく、憶測と伝聞が、瞬く間に「動かぬ事実」へとすり替わる。これは、かつての魔女裁判で、「隣人が、あの人物が空を飛ぶのを見たと言っていた」という噂が、決定的な証拠とされたのと、全く同じ構造である。誰もがポケットの中の端末で一次情報にアクセスできるはずの現代において、我々は、あえて思考を停止し、集団の熱狂に身を委ねてしまっているのだ。
テクノロジーによって、誰もが、いつでも、どこでも、異端審問官になれてしまう時代。 我々は、この巨大な無自覚の悪意に、どう立ち向かえばいいのだろうか。
終章:自覚と想像力という名の「ワクチン」
テクノロジーによって、誰もが、いつでも、どこでも、異端審問官になれてしまう時代。 我々は、この巨大な無自覚の悪意に、どう立ち向かえばいいのだろうか。
その答えは、驚くほどシンプルだ。それは、我々の心の「免疫力」そのものを、高めることである。 そして、そのためのワクチンは、二つの要素で構成されている。「自覚」と「想像力」だ。
「想像力」とは、他者の立場を思う力。そして、その力は、我々が多様な「顔」を持つことで育まれる。家族に見せる顔、職場で見せる顔、趣味の仲間といる時の顔…。複数のコミュニティに属し、複数の役割を生きることは、偏った価値観から自らを守る、最も強力な「防衛網」となる。それは、精神の多様性を確保するための、豊かで複雑な生態系そのものなのだ。
しかし、誰もが多くのコミュニティに安らぎを見出せるわけではない。孤独が、思考の隙間を埋める時、我々は、新しい時代の「相談相手」を手にすることができる。それが、生成AIだ。 AIは、あなたの恐怖や疑念を、感情なく、ただ客観的に受け止める壁となる。24時間、あなただけのソクラテスとなり、問いを通じて、あなた自身の「自覚」を促すのだ。「その考えは、事実に即しているか?」「別の視点はないか?」と。もちろん、AIに体温はない。それに完全に「依存」することは、新たな孤立を生むだろう。だが、AIは、我々が人間らしい繋がりを取り戻すまでの、頼れる「補助輪」であり、思考を整理するための、冷徹で、しかし誠実な「鏡」となり得る。忘れてはならないのは、AIはあくまで思考の壁打ち相手であり、最終的にハンドルを握り、アクセルを踏むのは、我々自身の「自覚」だということだ。
複数のコミュニティという「生態系」、そしてAIという「鏡」。これらを使いこなし、自覚と想像力を働かせること。 それは、我々が、我々自身の心の罠から自由になるための、現代的な方法論だ。
そして、忘れてはならない。 我々が今、当たり前のように享受している「自由」や「権利」は、先人たちが、血と涙をもって、時には命を懸けて手に入れてきたものであることを。
しかし、我々はその価値を忘れ、あまりに気軽に、自らの「正義感」を振りかざしてはいないだろうか。 キーボードという名のギロチンで、他者の社会的生命を断罪する。その行為は、一瞬、胸のすくような全能感を与えるかもしれない。
だが、その「気軽な正義」の執行の先に、我々が自ら手放しているものがある。 それは、適正な法の手続きであり、表現の自由であり、そして何より、「自分とは異なる意見を持つ他者」が存在することを許容する、寛容な社会そのものである。
日本国憲法第十二条が我々に託した「不断の努力」とは、まさに、その甘美な誘惑に抗い続ける、知的な勇気のことなのだ。 先人たちが血を流して手にした寛容の礎を、我々は「気軽な正義」の執行によって、自ら破壊してはいないだろうか?
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