境界線の消失:なぜクマは街に来るのか? 人と自然の“新しい契約”

テクノロジー

テレビのニュースから、またあの言葉が流れてくる。 『本日未明、市街地にクマが出没し…』。 多くの人は眉をひそめ、チャンネルを変える。またか、と。凶暴な獣、招かれざる客。物語はいつも、そこで終わってしまう。そして我々は、そのニュースを消費するだけで、物語の「登場人物」であることを忘れてしまう。

しかし、本当にそうだろうか? 我々がフロンティアと呼ぶ、森と街の境界線。そのラインを越えてきた彼らは、本当に一方的な「侵略者」なのだろうか。

もし、彼らが何かを伝えに来たのだとしたら? もし、その遭遇が、我々が忘れ去った自然との古い「契約」の破綻を告げる、警鐘だとしたら?

これは、一頭のクマから始まる、地球と人類の未来を巡る謎解きである。

第1章:失われた緩衝地帯(バッファーゾーン)

獣たちの息づかいが聞こえる奥山と、人の営みが続く街。その二つの世界は、本来、直接触れ合うことはなかった。両者の間には、グラデーションのように広がる「緩衝地帯(バッファーゾーン)」が存在したからだ。人々が「里山」と呼んだ、その場所である。

里山は、決して手つかずの原生林ではない。そこは、人の手によって巧みに管理された「恵みの庭」でもあった。斧の音が小気味よく響き、落ち葉を踏みしめる子供たちの声が聞こえる。人々は薪を拾い、山菜を摘み、季節の恵みをいただく。そこには、自然への畏敬と共に、人間の生活の匂いがはっきりと満ちていた。

そして、その「人の匂い」こそが、見えない境界線だった。森の奥から来たクマたちは、里山に漂う煙の香りや人の気配を感じ取る。それは彼らにとって、「ここから先は、我々の領域ではない」という、暗黙のルールを教えるサインであった。里山は、人間と野生動物が互いの存在を認め合い、適度な緊張感を保つための、いわば「礼儀作法」が交わされる舞台だったのである。

時は流れ、現代。斧の音は止み、代わりに不法投棄されたゴミが静かに朽ちている。人の生活の匂いは消え、獣だけが残した濃い気配が、湿った空気に満ちている。

一体何が、我々の”恵みの庭”を奪ったのか? なぜ、人間と自然の”礼儀作法”は失われてしまったのか?

第2章:犯人は”里山”だけなのか? – 複合要因の解剖

その問いに対する最も安易な答えは、”里山の荒廃”だ。しかし、優れた刑事が見落とされた証拠から事件の全体像を再構築するように、我々もまた、別の角度からこの謎を検証してみる必要がある。

第一の共犯者は、クマの故郷である「奥山」そのものの変質だ。 いや、もしかしたら、これは共犯者などではなく、真の主犯と呼ぶべきなのかもしれない。戦後、木材生産のために植えられたスギやヒノキの人工林は、成長すると地面に光が届かなくなり、下草が生えない。クマの餌となるドングリなどの広葉樹も育たず、森全体が「緑の砂漠」と化している場所が少なくないのだ。つまり、クマは里山に下りる以前に、故郷であるはずの奥山から、静かに追い立てられていたのである。これは、戦後日本の拡大造林政策が遺した、静かなる時限爆弾と言えるだろう。

第二の共犯者は、他ならぬクマ自身の”進化”である。 進化という言葉が適切でなければ、「したたかな学習」と言い換えてもいい。彼らの中に、「アーバン・ベア(都市型グマ)」と呼ばれる新世代が登場したのだ。彼らは人里を恐れず、むしろ「手軽なレストラン」と認識している。親グマが子グマに、ゴミ捨て場や果樹園の場所を”教育”している可能性さえ示唆されている。そのようにして世代を超えて受け継がれた知識を持つ彼らにとって、人間はもはや「危険な存在」ではなくなりつつある。

そして、第三の共犯者がいる。皮肉なことに、それは被害者であるはずの我々、人間自身だ。 我々は、二つの側面から、知らず知らずのうちに”犯行”に加担してしまっている。一つは、「山の番人」の不在。かつてクマの個体数を適切にコントロールし、人間との境界線を教えてきたハンターたちが、今、激減しているのだ。そしてもう一つは、無自覚な「餌付け」だ。キャンプブームで放置されたゴミ、収穫されないまま朽ちていく柿や栗。その一つ一つが、クマたちに「ここに来れば、ご馳走がある」という甘い毒のメッセージを送り続けているのである。

第3章:森の守り人たちの群像劇

では、この複雑な事件の最前線には、一体誰がいるのだろうか? クマと対峙し、森と共に生きる人々。その姿は、決して一枚岩ではない。我々はまず、この物語の舞台に立つ、三種類の『守り人』たちに光を当ててみる必要がある。

第一の守り人:伝統の番人(林業家・猟師)

長年の経験と勘、そして自然への畏敬の念を胸に、森と共に生きてきた山のプロフェッショナルたち。それが、第一の守り人である。

林業家は、木を植え、育て、伐ることで森の新陳代謝を司る、いわば「森の医者」だ。彼らが手入れをするからこそ、森に光が差し込み、豊かな下草が育つ。しかし、その聖域は今、後継者不足や採算性の悪化に静かに蝕まれている。そして、その厳しい現実に追い打ちをかけるように、彼らの仕事場がいかに死と隣り合わせであるかを示す、冷徹なデータが存在する。

林野庁の統計によれば、林業の労働災害発生率は、全産業平均の約10倍。数ある職業の中でも突出して高い。死亡災害の多くは、木を切り倒す「伐木」作業中に発生する。予期せぬ木の転倒、落下する枝の直撃。長年の経験を持つベテランでさえ、一瞬の油断や加齢による身体能力の変化が、命取りの事故に繋がるのだ。一つ一つの無機質な数字の裏には、森と共に生きた男たちの無念と、残された家族の涙がある。

そしてもう一方の雄、狩猟者。彼らは、クマやシカの個体数を調整する「生態系マネージャー」であり、その引き金一つで、野生動物と人間社会の間に見えない一線を引いてきた存在だ。しかし、この孤高の番人たちもまた、深刻な高齢化に直面している。

彼らの多くは、普段は別の本業を持つ民間人だ。農業、自営業、会社員…。地域への貢献と使命感に支えられ、市町村からの要請があれば、危険な有害鳥獣の駆除にも出動する。しかし、その献身に、社会は常に理解を示してくれるわけではない。ひとたび銃声が響けば、時にその行為は非難に晒され、法廷でその正当性を問われることさえある。

命がけでコミュニティを守ろうとする彼らが、社会から孤立していく。「俺たちが山に入らなくなったら、この里はどうなるんだ」。その悲痛な問いに、今の社会はまだ、明確な答えを持てずにいる。 この深刻な断絶こそ、クマ問題の根底に横たわる、もう一つの危機と言えるだろう。

第二の守り人:新しい風(NPO・企業・移住者など)

だが、物語は絶望だけでは終わらない。伝統的な守り人たちが苦悩するその一方で、全く新しい角度から、この失われた庭に光を当てようとする者たちが現れている。

その中心で、コーディネーターとしての役割を果たすのが、専門知識と情熱を武器にするNPOだ。彼らは、行政の縦割りや地域のしがらみを乗り越え、異なる言葉を話す者たちの間に立つ、優れた「通訳」のように機能する。

そのNPOが描いた未来図に、企業が資金や人材という名の「燃料」を投下する。あるIT企業は、鳥獣害対策アプリを開発し、本業の技術で貢献する。ある建設会社は、社員研修の場として森を整備する。それは単なる社会貢献(CSR)ではない。自らの事業と社会課題を結びつける、新しい時代の「生存戦略」でもあるのだ。

そして、その流れに最も新しい価値観を吹き込むのが、都会からやってきた移住者や地域おこし協力隊だ。彼らは、地元の人々が当たり前と思っていた風景の中に、「観光資源」や「教育の場」としての輝きを見出す。古民家を改装したカフェから漏れるコーヒーの香りは、里山に新しい人の流れを生み出す。地元の人々さえ忘れかけていた里山の価値を、再び照らし出す。

この大きなうねりを、さらに加速させるのが「関係人口」と呼ばれる、無数のサポーターたちだ。彼らは週末だけ森を訪れ、汗を流す。定住はしない。所有も選ばない。しかし、その心は確かにこの土地と繋がり、森を育んでいる。

個々の力は小さい。だが、専門家が触媒となり、企業がエンジンとなり、移住者が舵を取り、そして無数の人々が追い風となる。 まるで、小さな生き物たちが寄り集まって一つの巨大な生態系を築くように、彼らは今、新しい時代の里山を、パッチワークのように、しかし確かに紡ぎ始めているのである。

参考:総務省「二地域居住・関係人口ポータルサイト」

第三の守り人:神の視点を持つ者

そして、物語の舞台には第三の守り人が存在する。現場で木の一本一本と向き合う「第一の守り人」、多様なアプローチで新しい価値を生む「第二の守り人」。彼らが森というミクロな世界で奮闘する一方で、国家というマクロな視点から、森全体の未来図を描く者たちだ。林野庁の森林官などに代表される、国家レベルの設計者である。

彼らが振るうのは、斧や鋸ではない。データとテクノロジーという、現代の魔法だ。

林野庁が推進する「スマート林業」。その核心は、人間の視点を遥かに超越した、「神の視点」を手に入れることにある。ドローンや航空機から放たれた無数のレーザー光線(LiDAR)は、森の全てを三次元データとして写し取る。それはもはや地図ではない。森そのものをデジタル空間に再現した「双子の森(デジタルツイン)」だ。この双子の森を見れば、ベテランの経験と勘でも把握しきれなかった森林全体の木材量や、未来の成長予測までもが、手に取るようにわかる。

この神の視点を持つことで、森林官たちは、どこを伐採し、どこを育てるべきかという、未来の森への「最適解」を導き出す。もちろん、その俯瞰的すぎる視点が、時に現場の肌感覚とすれ違うこともあるだろう。しかし、災害時には誰よりも早く空から被害の全貌を掴み、復旧への道筋を示す。

まさに、人間が初めて手にした「鳥の目」。いや、森の過去と未来を見通す「賢者の目」と言ってもいい。このマクロな視点なくして、日本の森の未来は描けないのである。

第4章:希望の処方箋 – テクノロジーという名の、新しい”契約書”

我々は、長い旅をしてきた。失われた境界線、その背景にある複雑な要因、そして最前線で奮闘する人々の顔。その全てを知った今、我々の前には、なおも厳然たる現実が横たわる。希望の光は見えた。しかし、獣たちの警告は、今も鳴り止まない。

我々はただ、この複雑さに打ちひしがれるしかないのだろうか?

いや、断じて違う。我々の手には、かつてのどの時代も持ち得なかった、未来を書き換えるための強力な「ペン」がある。それが、テクノロジーだ。

第一の処方箋は、我々の思考を根底から覆す。AIカメラ、GPS、ドローン。これらの技術は、クマを一方的に「監視」するためのものではない。それは、彼らの生態を深く「理解」し、賢く共存するための「対話のツール」なのだ。我々は初めて、彼らの言葉なき言葉に耳を傾ける術を手に入れたのである。

第二の処方箋は、人間に福音をもたらす。遠隔操作の林業機械やウェアラブルデバイスは、伝統の担い手たちを危険から解放し、その尊い経験と知恵を安全に未来へと繋ぐ「最高の代理人」となる。危険が去った森には、やがて新しい世代の担い手たちが集い始めるだろう。

第三の処方箋は、我々に「神の視点」を授ける。衛星データとLiDARが生み出す「双子の森」は、森の健康状態を正確に映し出し、その栄養が再び海へと豊かに注がれる未来を約束する。これこそ、森と海が、そして地球と人類が交わす、新しい時代の「契約」そのものである。

だが、忘れてはならない。

これら三つの処方箋は、万能薬ではない。それを正しく調合し、世界に処方するのは、我々人間の「自覚と想像力」という、究極の知性にかかっている。

クマとの遭遇。それは恐怖の始まりではなかった。 我々がこの新しい力を手にし、自然との関係を、そして我々自身の未来を再設計するための、地球からの、厳しくも愛に満ちた「招待状」だったのである。

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