生命は海で生まれた。全ての生命にとって、海は母なる存在です。
やがて、その子供たちの一部は、陸という新天地を目指して故郷を旅立っていきました。しかし、子供たちは母のことを忘れたわけではなかったのです。
陸でたくましく成長した彼らは、数千万年の時を経て、故郷の母へ、想像を絶するほどの壮大な「恩返し」を始めることになります。
この、陸に上がった生命と母なる海の壮大な関係性。その本質を捉えた美しい言葉が、日本の漁師や林業関係者の間で語り継がれています。
「豊かな森は、豊かな海を育む」
実はこの言葉が示す真理は、現代の生態系だけでなく、今から約4億年も昔、地球に初めて森が誕生した瞬間にまで遡ることができるのです。
第1章:天を覆う緑、地球最初の森林
第一次上陸部隊が、何もない岩盤に第一歩を記してから、数千万年という想像を絶する時間が流れた、デボン紀。
かつて地表を覆っていたコケのような小さな植物たちは、世代交代を繰り返す中で、ついに天を突くほどの巨木へと進化を遂げます。
深い根と豊かな葉を持つ巨木の集団。地球史上初の「森林」の誕生です。
ただそこに存在するだけで、陸の景色を一変させた森。しかし、その真の偉大さは、地表の下で起きていた「二つの革命」にありました。生命を育む「土壌」と、海に栄養を届ける運び屋「フルボ酸」の発明です。
まず、巨木たちの根が、物理的・化学的に岩石を砕き、風化を飛躍的に加速させました。そして、天を覆うほどの葉が、枯れては地面に降り積もり、微生物によって分解されることで、有機物を豊富に含んだフカフカの「腐葉土(ふようど)」、すなわち厚い土壌が史上初めて形成されたのです。
この豊かな土壌こそが、第二の革命の舞台となりました。土壌の中で有機物が分解される過程で、「フルボ酸」という魔法のような物質が大量に生み出されます。フルボ酸には、ミネラルを掴んで離さない「キレート作用」という特殊能力がありました。
こうして、森が生み出した壮大なシステムが完成します。
- 【風化促進】 根が岩石を砕き、ミネラル(鉄分など)を溶かす。
- 【土壌形成】 降り積もった落ち葉が、豊かな土壌を作る。
- 【フルボ酸生成】 土壌が、鉄分を掴む「運び屋」フルボ酸を生み出す。
- 【栄養の河川輸送】 山に降った雨が、フルボ酸にがっちり守られた鉄分(フルボ酸鉄)を、川となって母なる海へと運んでいく。
鉄は本来、海水に溶けにくくすぐに沈んでしまいます。しかし、フルボ酸という「優秀な配達員」に守られることで、プランクトンが利用できる最高の「贈り物」として、海中を漂うことができるようになったのです。
第2章:海に届いた贈り物、生命の大爆発
陸の森林が用意した「贈り物」。それは、川を通じて海へと注がれた、巨大な「起爆剤」でした。静かだったデボン紀の海で、それまでの常識を覆すほどの劇的な生態系革命が、ドミノ倒しのように巻き起こります。
連鎖する二段階の「爆発」
鉄分という最高の「肥料」を得たことで、海の基礎生産者である植物プランクトンが爆発的に増殖しました。それまで青く澄んでいた海の大部分は、まるで抹茶を溶かしたかのように、生命力あふれる緑色のスープへと姿を変えたことでしょう。
この豊富な植物プランクトンを食べる動物プランクトンが増え、それを食べる小魚が増え、さらに小魚を食べる大型の魚が出現する…。食物連鎖のピラミッドが、根底から一気に押し上げられたのです。
この豊かになった海を舞台に、強力なアゴを持ち全長10mに達したとも言われるダンクルオステウスのような巨大な鎧の魚(板皮類)や、現代の海の王者であるサメの祖先たちが、我が世の春を謳歌し始めました。
そう、これこそが、地質学の歴史において名高い「魚の時代」の、本当の幕開けでした。 陸に上がった生命からの「恩返し」が、海に棲む遠い親戚たちの黄金時代を築き上げた瞬間です。
しかし、何事にも適量があります。このあまりに壮大すぎた恩返しは、皮肉にも、のちに海を生態系の激変へと導く「デボン紀後期の大量絶滅」の引き金の一つにもなってしまうのです。
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