私たちは、環境汚染や気候変動を、現代人だけが引き起こした問題だと思いがちです。
しかし、地球史上最初の、そして最大の環境破壊を引き起こしたのは、実は生命自身でした。
今から約24億年前、一種類の細菌の大繁栄が、地球の大気に「猛毒」をまき散らし、多くの生物を絶滅に追いやったのです。その猛毒とは、私たちが今、当たり前のように吸っている「酸素」。
なぜ「命の源」であるはずの酸素が、当時は「毒」だったのか。なぜ『命の源』であるはずの酸素が、当時は『毒』だったのか。これは、地球の支配者が交代した、史上最大の『生物学的クーデター』の物語である。
第1章:最初の革命家、シアノバクテリアの「光と影」
原始の海は現在の生物にとっては極めて過酷な「死の海」でした。しかし、逆説的ですが、この酸素がなく、化学物質が豊富に溶け込んだ環境こそが、最初の生命が誕生するための重要な舞台となりました。
最初の生命は、酸素を必要とせず(嫌気性生物)、太陽光の代わりに海水に溶け込んだ鉄や硫黄などの化学物質からエネルギーを得る「化学合成独立栄養生物」だったと考えられています。
そんな生命の楽園に、革命の旗を掲げたとんでもない生物が出現しました。シアノバクテリアです。彼らは、それまでの生物が甘んじていた、ささやかなエネルギー源に背を向けました。そして、無尽蔵にある水を分解するという、誰も思いつかなかった禁断のエネルギー革命に打って出たのです。
それまでの生物が行っていた、水(H2O)の代わりに硫化水素(H2S)などを使う「酸素を発生しない光合成」から、無尽蔵にある水(H2O)を分解して光合成を行うという、画期的な方法を「発明」しました。
この「酸素発生型光合成」は、爆発的に増えるためのエネルギー源を確保できる素晴らしい能力でしたが、同時に猛毒の副産物(酸素)を自身の周りにまき散らすことになりました。
シアノバクテリアは、自らが生み出した猛毒の酸素によって、自分自身もダメージを受けるという大きな問題に直面しました。ここで、生き残るために二つの進化が起きます。
- 防御機能の獲得: まず、酸素の毒性を無害化する酵素などを発達させました。これは「守り」の進化です。
- 利用能力の獲得: さらに、一部のシアノバクテリアは、その猛毒であるはずの酸素を、エネルギーを生み出すための呼吸に利用するという「攻め」の進化を遂げました。これが「好気呼吸」の始まりです。
第2章:古の秩序、メタン菌
酸素という猛毒を無害化し、さらにはエネルギーに変える進化をしたシアノバクテリアが出現した一方で、酸素が猛毒であることは変わらないため生息環境を制限された生命もいます。メタン菌もその一つです。
メタン菌は、その名の通りメタンを生み出す生命です。地球上で発生するメタンのうち、自然のガス田や化石燃料の採掘時に漏れ出すものを除けば、そのほとんど(約7割以上)がメタン菌という微生物の働きによって作られています。
かつて地球は、酸素を必要としない生命たちが支配する、静かな世界でした。それが、彼らが守ってきた「古の秩序」です。 しかし、シアノバクテリアという革命家が現れ、猛毒の「酸素」によってその秩序を破壊し、世界を力ずくで塗り替えてしまいました。メタン菌は、その革命の炎から逃れ、今もなお酸素の届かない場所で『古の秩序』を守り続ける、いわば『旧体制の亡命者』なのです。
では、このメタンとは一体どのような物質なのでしょうか?
メタンは、無色・無臭の、非常に燃えやすい気体です。私たちが家庭で使う都市ガスの主成分は、このメタンです(ガス漏れが分かるように、わざと匂いがつけられています)。
そして、このメタンという物質は、地球環境と人間社会にとって、「有益な顔」と「厄介な顔」という、二つの側面を持っています。
メタンのメリット:クリーンなエネルギー資源として
- 比較的クリーンな燃料: メタンは、石炭や石油といった他の化石燃料と比べて、燃焼させた時に排出される二酸化炭素(CO2)の量が少なく、また、大気汚染の原因となる硫黄酸化物(SOx)や煤(すす)をほとんど出しません。天然ガスが「クリーンエネルギー」と呼ばれるのはこのためです。
- 多様な利用法: 発電所の燃料としてだけでなく、都市ガスとして家庭に供給されたり、工場で様々な化学製品(水素、アンモニアなど)の原料になったりと、私たちの生活と産業に欠かせない重要な資源です。
- 再生可能エネルギーとしての可能性: 家畜のふん尿や生ゴミなどからメタン菌の働きで作り出す「バイオガス」は、廃棄物を資源に変える、持続可能なエネルギーとしても期待されています。
メタンのデメリット:強力な温室効果ガスとして
- 強力な温室効果: これがメタンの最も厄介な側面です。メタンは、大気中に放出されると、二酸化炭素の25倍以上という非常に強力な温室効果を発揮します。地球温暖化を加速させる、CO₂に次ぐ第二の原因物質とされています。
- 大気中への漏出(リーク): 天然ガスの採掘現場やパイプラインから漏れ出したり、牛のげっぷや水田、ゴミの埋立地から大気中に直接放出されたりすることで、その強力な温室効果が問題となります。『燃やせばクリーンだが、漏れると非常に厄介』なのです。メタンとは、まさに『光と影』を併せ持つ、古代からのメッセンジャー。人類がその声にどう耳を傾けるかで、未来は大きく変わるのです。
第3章:生命の署名と、人類だけが持つ「自覚」
もし、地球以外に酸素がある星が発見できればシアノバクテリアのような生命がいる可能性を感じられるかと思います。しかし、シアノバクテリアのような生物がいなくても酸素は存在できるシナリオが考えられます。
- 水の光分解と水素の流出 惑星の大気上層にある水蒸気(H2O)が、中心の恒星から放たれる強力な紫外線によって水素(H)と酸素(O)に分解されることがあります(光分解)。水素は非常に軽い元素なので、惑星の重力を振り切って宇宙空間へ逃げ出してしまいます。一方、重い酸素はその場に残り、大気中に蓄積していく、というシナリオです。
- 暴走温室効果による結果 地球より少し太陽に近い金星のような惑星で、海がすべて蒸発して灼熱地獄になる「暴走温室効果」が起きた場合、大気は大量の水蒸気で満たされます。その水蒸気が水の光分解と水素の流出のプロセスで分解され、結果として酸素だけが残った大気が形成される可能性があります。
- M型矮星(せきしょくわいせい)の惑星 宇宙で最もありふれたタイプの恒星である「M型矮星」の周りを公転する惑星は、特にこの偽りの酸素を生み出しやすいと考えられています。これらの恒星は、活動が活発で強力な紫外線を頻繁に放出するため、惑星の水を分解し、酸素の大気を作りやすいのです。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の重要な探査目標の一つは、この現象を検証することです。
そこで宇宙探偵たちが注目するのが、古の秩序の担い手、メタン菌の存在です。酸素とメタンは、お互いが出会うと化学反応を起こしてすぐに消えてしまう関係です。もし、これらが一つの大気に共存しているとすれば、両者を絶えず供給し続ける『生命活動』という犯人がいる、動かぬ証拠。宇宙に響き渡る、最も確かな『生命の署名』なのです。
この「酸素とメタンの共存」という、化学的にありえない地球の現状を作り出した、シアノバクテリアとメタン菌。彼らと私たち人類には、一つ、決定的な違いがあります。
その違いこそが、私たちが「環境を破壊するだけの存在」ではなく、「地球の救世主」にさえなり得る可能性の源泉なのです。
未来を選択する力
私たちは、過去の過ちを学び、反省することができます。そして、メタンをエネルギーに変える技術のように、問題を解決するための新たな知恵や技術を生み出すことができます。
環境を破壊するのも人間ならば、それを守り、再生させようと行動できるのもまた人間です。
生命の長い歴史の中で、自らの星の未来を『選択』できる岐路に立ったのは、後にも先にも私たち人類だけなのです。環境を破壊するだけの獣になるか、星を救う理知となるか。その壮大な選択の権利と責任。それこそが、40億年の進化の果てに私たちが手にした、最もユニークで、最も尊い能力なのです。
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